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綺堂作品の舞台

その1: (このページ)
  1.半七親分の住まい 神田三河町界隈
  2.『青蛙堂鬼談』『近代異妖編』が語られる 小石川・切支丹坂

その2:
  3.「白髪鬼」の舞台 四谷・須賀神社
  4.雑司が谷・鬼子母神

その3:
  5.小石川・切支丹坂 (続)
  6.浅草 浅草寺・雷門 ほか

その4:
  7.福岡名島城址探訪記 『馬妖記』の舞台
  8.名島城幻影 その1 その2


8.名島城幻影

1.動機

 名島城(址)の魅力は三つある。一つは今日からは在りし城の様子がほとんどうかがわれないという点である。天守閣や城郭の一部すら、石垣すら、堀すら見られない。二つには、江戸よりも以前の城であったということだろう。しかも、珍しい水城、兼、平城である。全国に江戸時代の城はまだいくつか残っている。それ以前の城跡もないではないが、便利のよい地にあるのはそうざらではなかろう。訪問記や紹介記事から見て人気がある割には、その全貌はほとんど明らかになっていないということである。HPの紹介ページを見ても、小早川隆景による築城云々や、その後、福岡城に・・・、遺構がどこに・・・である。三つには、重なる歴史の古層があるという点だろう。そして、わが綺堂先生も、ここを舞台とされた物語(「馬妖記」)を書かれたのである。

小早川隆景が築城したという、水城、海城である、筑前名島城。彼の郷里というか拝領地である、広島三原市にも、やはり彼は水城を築城しているようだ。いつか機会があれば訪れてみたい気もする。さて、話は名島城、しかも、豊臣秀吉の頃の話である。

どうも絵図面(名島神社に掲示されている「名島城の絵図面」の写真)に私が赤い線を引いたところ( →参照)から、気にかかっていた。本当にこの位置かという確信である。絵図面だって、正確なものかどうかはわからない。どこに出典があるのだろう。

気になったのはもう一つ、「三の丸」という地名が残っているという話だった。地元の人に確認しておけばよかったが、当時は、小雨がしょぼついており、人も少なかったし、空き時間の利用という条件だったので、こちらにも余裕がなかった。ネットの地図サービスで調べたが、そこまでの詳細なものはなかった。ネットで検索しても、どうも該当するものはヒットしなかった。

できれば、名島城の全貌・全容を知りたい。

2.名島城の位置と規模



左写真:「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」著作権(c)国土交通省)

地図ソフトから探した
この小高い丘(と、これは想像)が「三の丸」があったところである。
古い地図を調べてみようと思ったが、福岡市の古い地図が容易に手に入るはずもなかった。図書館にもない。あっても詳細ではないので役に立たなかった。

古い全国地図ソフトがあったことを思い出して、インストールして見た。ネット上で地理くらい検索できるので、そこに落とし穴があったのだ。単純なことだが、詳細なレベルでの地図はネットでは探せないということだ。

名島1丁目を探してゆくと、写真では右手の国道3号線のすぐ左手に楕円形の形らしい地域に、団地らしいところが目につく。ここがなんと「三の丸」団地だったのである。

城郭の全体のイメージがつかめないので、HPを繰り返し検索するもゼロである。つぎに、昔の絵はがきをネットでいくつか公開されていた。しかし、名島城を直接写したものは見あたらない(はずがない!)。

航空写真を思いつく
 どうも今ひとつ地理がつかめないので、というより、このあたりかなり埋め立てがあったようで、不案内な私にはどの時代にどこまでが陸地だったかもわからない。地図も今ひとつ、絵はがきもこれ以上は(公開されていて見ることのできるものは)ない・・・。そこで、空中写真というか航空写真だったら、何となくイメージがわかるのではないだろうかと気がついた。

○現代の空中写真
 国土交通省国土計画局ページ(GISのホームページ)の中に「国土情報ウエッブマッピング・システム」というコーナーがあり、ここから「カラー空中写真」へとたどってゆくと、比較的最近の全国の航空写真が閲覧できる。(なお利用には制限があり、つぎのような表示を求められている。同ページ参照)

 上掲載のカラー空中写真の所在はここ。 出てきた写真の画面をクリックするとすばらしく拡大したものになる。
 (「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」著作権=国土交通省)

これを利用させてもらって、空からの多々良川・名島城址あたりを眺めてみた。カラー版でわかりやすい。あちこち埋め立てたらしい様子がわかる。きれいに整地されたらしいところは、戦前・戦後あたりの埋め立て地である。
名島城址・名島神社あたりから右へ、緑地や比較的樹木の茂ったところを探してゆくと、どうやら小高い丘のような地形がある。このあたりが昔からの陸地であったところだろう。

妙見島(左手)は陸続きとなっている。左手の海に面したところに緑地の小高いところがあるのがそれである。埋め立ては、人口対策だったのか。広大な城浜団地と呼ばれる群がある。「城浜」の城は、むろん名島城に由来するのは当然だろう。

ただ、地図マップの方が新しいので、そちらと比べると、このカラー写真どころではなく、さらに海は埋め立てられている。恐るべし出ある。名島が陸地の中に取り込まれるのもそう遠い話ではない気がする。

3.名島城の堀とその跡

 航空(空中)写真でもだめかとあきらめていたら、比較的昔の航空写真が公開されていることが判った。インターネットの力ですね。

・米軍撮影の空中写真(1956年撮影 (c)国土地理院)

古い地形を知るには、もっと古い空中写真がないものかと、探してみた。国土地理院のHPを探していたら、むろん全国あるが、幸いにも名島方面を撮った空中写真が公開されていた。

これは戦後(1956)のものだが、11年ばかり前はどうだっただろうか。これくらいの写真があれば、もう爆撃も、250キロ爆弾投下も、手に取るようにではなかっただろうか。

・上のオリジナル写真がある国土地理院のURL
国土地理院
  ・空中写真閲覧システム
(1)実在した、名島城の堀 <写真1>
 米軍撮影(1956年)の白黒写真では、まだ堀の一部が残っていたのである。写真の中に書き込んでおいた。写真右手の池らしいところである。名島神社の絵図面と同じように、現在の地形の曲がり具合とほぼ一致する。現在の「三の丸」団地の下方である。地上ではおそらく池にしか見えなかっただろう。むろん、石垣が巡らされていないという前提の話だが。このあたりに住んでいて、当時の「池」を見聞きしている人はいないだろうか。むろん、現在は埋め立てられて、住宅地となっているようだ。

(2)他の堀

ほかの堀の配置図も絵図面に従って見てゆくと、赤紫の四角で囲んだ三カ所でつながっていたはずである。北の海へつながる堀は、のちに名島水上飛行場となるところで開口していたはずである。

とすると、名島城は、北に向かってちょうど鳥が羽を広げたような形で広がっているではないか。そう、そして、本丸と二の丸・三の丸を分割している水堀は、現在は中央の道路あたりといえるだろう。やっと名島城の現在の地形での配置がわかってきたような気がする。以前に歩いてみた感じでは、結構長い距離があったことになる。

・多々良川との入り江側の堀の跡 

【写真 名島城本丸台地 現在写真公開を交渉中najima-power0b.jpg】

 左の写真(昭和20年代後半撮影)の左手をご覧いただくと、4本煙突の発電所の近く、多々良川に通じる入り江が開いている。入江の最奥には開口した小川のようなものが見える(写真中、黄色@)。これが本丸の丘の下に沿って掘られていた堀の名残ではなかろうか。
その全体の想像イメージは、上の写真に書き込んだ通り。

現在もここに小川があるとは思えない。また、近代的な道路になっていて、地上では確認するすべもない。アスファルトの下に暗渠か何かあるのだろうか、判らないが。

 これと通じていたのが、つぎの堀である。

・「本丸」の下、名島発電所との境にあった堀の跡 <写真中 黄色A>

 写真をみると、発電所と本丸のあった丘との間に、“線のようなもの”が見える。これが細い道路なのか、小川のような水路なのか、ちょっと確認がつかない。いずれにしても、これも本丸の下を通じていた堀の“遺構”(名残)なのではなかろうか。これと通じていたのが、つぎの堀である。

帆柱石のあるあたりの海には、四角いものが一面に写っている。海苔の養殖場と思ったが、やはりそうだったようだ。このあたりからも海苔がとれていた!のである。昔日の白砂青松であった地域の海水の汚染は!

つぎの引用記事から、確証を得た。

○青峰重範(九州大学名誉教授) 題名「千代の松原」
    「名島発電所の煙突はいつ見ても黒煙を上げている。昼休に埋立地に出て防潮堤にもたれ、波静かな博多湾の海を幾度眺めたことであろう。学生にとって博多湾は心情的にはキャンパスの一部であった。
     名島橋を渡り、川岸を下ると名島神社の鳥居近くの河口の岸にヨット部の艇庫があった。キャンパスから徒歩20分位の距離である。河口浅瀬の海苔養殖竹の間の水路を抜けて博多湾に出ると、正面に頂きの平らな能古島、その右に志賀島、その間の狭い水路のはるか向うに小さく、三角状の玄界島が見える。」
     出典:九州大学大学史料室ニュース 第6号 (発行日 1995年9月20日、編集・発行 九州大学大学史料室)


名島浜の白砂青松は、つぎの絵はがきでも偲ばれる。現代人であることがイヤになるほどだが、人とは汚染の源に他ならないのだろう。

・現・城浜団地、旧名島水上飛行場(跡)へ通じる堀の跡

 写真では中央上部に、名島水上飛行場がある。そこに通じる白い、いくらか幅の大きい、右下に通じた道路がある。過日訪れたときも歩いたので感じとしてわかるが、この道路は現在もある。この道路が本丸のあった丘あたりから、水上飛行場に通じたところの、右側にはやはり水路とおぼしき跡(写真では線のようにみえる)が付いている(写真中 黄色B)。このあたりがやはり、堀であったところと考えられる。
この堀も上の実在した(1)の堀と通じていたのである。この堀は、実に不思議で、本丸と、右手の丘の上にあった「二ノ丸」「三ノ丸」とを分割しているのである。

4.名島城「二ノ丸」「三ノ丸」

 写真では、右端にしか写っていないが、人家がまばらに点在し、松などの樹木が見え、小高くなった丘らしきものが見える。これが「二ノ丸」があったところで、これにつづいて「三ノ丸」が所在したと思われる。いずれも小高い丘になったところである。その下には、米軍写真でも池のように写っていた堀と続いていた二の丸・三の丸を守る堀があったはずである(写真中 黄色C)。  もう一つの別の写真で見ると、こちらの丘は見えにくいので、やはり本丸のあった(現在の名島神社のあるあたり)丘の方が高さは高かったのだろう。

 
    名島水上飛行場 名島国際水上飛行場
     名島水上飛行場は、1930年に開場し、大型クレーン2機を備えていた。チャールズ・リンドバーク、アン・モロー・リンドバーク夫妻は、1931年7月27日、航空会社から依頼された北太平洋航空路開拓のため、試験飛行に出発した。北海道(函館)や霞ヶ浦、大阪(9/13大阪木津川飛行場)に立ち寄った後、9月17日、福岡市東区にあった名島水上飛行場(現在の名島周辺)にシリウス号で降り立った。

    シリウス号画像
    アン・リンドバーク夫人は美人のようだ。作家、詩人。著書に「翼よ、北に」(みすず書房)他。上に掲載されている福岡での滞在の写真のうち、歓迎会の様子は、おそらく共進亭ホテル(福岡・呉服町。リンク先の、左上の1番目の絵はがき。日章旗が掲げられているのがこのホテル。現存はしないようだ)であったと思われる。当時、この旅館が博多ではもっとも背が高かったという。三菱のマークの幕が張られているようだが、飛行機や後援などと関係していたのだろうか。夫妻の前に出されている皿の上にあるのは、ぼた餅のように見えるけれども、どうでしょうか?しかも、アン・リンドバーク夫人が、着水到着したときと同じような白い飛行帽をかぶったままなのはなぜ?数時間後の旅立ちが予定されていたためだろうか?。博多人形が贈られたらしいが、アメリカに残してきた1歳の長男のためであろう、金太郎の人形を所望したという。
     また、夫妻を挟んで四人が写っているバックは黒いけれど、何だろうか?飛行機の前ではなさそうだし、大きな岩のようにでこぼこしているような感じだが。水上飛行場の建物の前か何かだったのだろうか?右手にいるおじさんは、つねに夫妻と寄り添っているようだが、通訳か主催者側の人なのだろうか?いろいろ疑問は出てきますね。
     福岡滞在の後は、夜に上海に向けて飛び立つという、驚くべきスケジュールだったようだ。夜間に飛行というのが、アジアへのこの旅程の目的の一つでもあったかのようである。

     1歳の子をアメリカに残しての飛行だったのだが、翌年には誘拐され、変わり果てた姿で発見されたという悲劇もある。またドイツには愛人も居たりして、空の英雄もなかなか(楽しかった?)大変だったようだ。Charles Lindberghで探せば、偉業や伝記、録音した声など詳しい英文ページがたくさんある。http://www.charleslindbergh.com/ほか

     また、福岡に飛来する大分前、8月31日には、首相官邸で歓迎が開かれている。そのときの新聞記事の写真を、写りは悪いが、ここに挙げておきます。新聞も「リンディ」と親しい呼び方!写真は、若槻禮二郎首相と夫人、リンドバーク夫妻とアメリカ大使。なぜ若槻首相が晩餐会かというと、リンドバーク夫人の父親はアメリカの外交官で、1930年のロンドン軍縮会議(そう、戦艦の建造比率が決められた)のときのアメリカの全権大使だった、ドワイト・モロー(Dwight Morrow)氏と知己だったというのがいきさつのようだ。メキシコ大使時代のコレクションが美術書として刊行されている。娘のアン・リンドバーク夫人には、上掲書の他に「輝くとき、失意の時 ユニコーンとともに」などがある。その娘も作家のようだ。
    昭和6年頃の飛行場の絵はがきが紹介されている。

    福博絵葉書ご紹介 名島・東箱崎界隈
    この絵葉書にも映っている妙見島から飛行場付近は現在は埋め立てで陸続きとなり、昔日の面影はない。記念碑は、水上飛行場跡の一角に立つ城浜郵便局の近くのようだ。案内地図


    名島水上飛行場跡(福岡市東区城浜団地)

    碑文
    「昭和五年開場し大阪と中国の上海へ水上機による定期空路が開かれ九年に閉鎖 六年にはリンドバーグが飛来した」

    名島城山を背後にして、交差点からセブンイレブン店、城浜郵便局と北へ(団地の方面へ)と歩く。角を左へ曲がると、クリーニング店のすぐ先、マンションの前にこの碑がある。このあたりが海だったとはとても感じられない。

5.名島城「本丸」と3層の石垣

 さて、現在の名島神社のある丘(と呼んだ方がいいような高さ)が「名島城本丸」あった丘である。以前にも書いたように、名島神社の裏手にさらに一段小高くなったところがあり、鉄条網で入れないようになっているが、空き地となっている空間がある。ここが本丸が置かれていたと案内書きにもある。つい最近まで、私有地であったという話だ。私有地といえば、秀吉がそこの井戸で茶会を催したという妙見島も現在も私有地であるらしい。入れないので、どのような案配や広さになっているかわからない。

海側というか、名島神社から登る(現在はこの方しか登り口はないようだ)のは、実は城の裏門である。神社のあるまでが1段の石垣があったと思われる。本丸はさらに1段高いので、石垣がやはり巡らされていたのではないか。海から見れば、石垣は2層(段というのだろうか)に見えたのではないか。

反対側の、運動公園や名島商店街側から見ると、おそらく石垣は3層くらいあったのではなかろうか。(上写真中の、赤@ABの位置か)

こうして想像すると、先にも書いたように、名島城は、北に向かってちょうど鳥が羽を広げたような形で広がっていた。そして、本丸と二の丸・三の丸を分割している水堀は現在は城浜団地に通じる道路となっていたものである。

  
    名島神社、帆柱石、そして水上飛行場跡(碑のみ)と歩いて、他に何もないから、楽しみは休息ということになる。私は食べ損なったが、というより後で知ったのだが、ここのラーメンは博多のそれのなかでも、根強いファンがいるようだ。正直のところこんなところにという感じだが、次の機会には是非と、思う。博多ラーメンでは伝統的な、長浜系のとんこつスープ仕立てのようだ。
     【追記→】 12時過ぎに通りかかったのだがすでに長い列があるので、時間をずらそうと、探訪を継続して、再挑戦。スープが終了で店じまいではないかと恐れながら午後2時近くに再訪。気さくな大将がいる店だった。ラーメンと頼んで待つと、昔懐かしい長浜ラーメンの味と香り。丈の低めのどんぶりに、白濁のスープに、白い細麺、チャーシュウ3枚。福岡は水煮豚のチャーシュウが一般的だが、ここは煮込んだもの。スープはこってりよりもあっさり、豚骨臭さもほとんどない。白いスープに、緑のアサツキの細いみじんのネギたくさんである。テーブルに置いてあるごまと紅ショウガで仕上げると、彩りもよろしい。これでなくなくてはいけない。○風堂、△蘭と最近創作の人気店はあるが、やはり博多ラーメンはここに尽きるはず・・・などと考えていると。するとあちこちから「かえだま!」と声がかかる。おお、これが有名な「替玉(かえだま)」かいと、スープを啜るのを少なめにして、麺食いに集中する。3−4分(ぶ)ほどに残りの麺がなったところで、負けじと顔を上げ「替玉ください」と注文を発する。「アイヨッ!」と声がして、釜に麺が一玉投げ込まれる。ネギ付きで来た!無事スープに収まって、再び麺を食う。すると2つ隣の兄ちゃんがこんどは二度目の「替玉!」の声。1スープで3玉の麺を食うことになる。さすがにこっちは歳なので替玉のお替わりは止しにした。ラーメン450円、替玉100円、すこぶる良心的。人気の秘密がわかろうというもの。満足して名島と城跡を後にする。

     ラーメン 名島亭  福岡市東区名島2-41-7 (九州電力 福岡東営業所の向かい)
      http://www.kbc.co.jp/radio/powershovel/noodle/71.html
さて、つぎは発掘史料と調査報告書が欲しいところだが、これは公開されてはいないようだ。平成2年に本丸天守台東側の発掘調査があったそうだが、石垣の根石や建造物の跡が確認されたという。

私が絵図面の写真に赤い線を引いたところは、全然違っていたということになる。私の赤い線は北の海へと通じる堀に沿っており、上で書いたように、現在の道路あたりである。私が歩いたのは、もっと違ったところで、この写真では海岸線に沿ったところであろう。謹んで訂正します。

足利尊氏が、南北朝時代、1336年(建武3)に 九州へ落ちていた足利尊氏らと菊池氏の間で多々良浜の戦いが行われた古戦場にもごく近いか、同じところだろう。この戦いに勝利したことによって、尊氏は盛り返すことになった。

どうしてこんなところに、海馬が出るのだろうと、思ったのが、遠い原因であったようだ。それにしても、空中というか航空写真が、地形の把握は言うに及ばず、歴史の探索にもちょっとした役割を果たしてくれるとは思わなかった。意外だったので、何かの機会にも役に立てよう。

                            9/23/2005 記■


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