綺堂作品紀聞 綺堂作品とその実証
綺堂さん自身から私が聞いたことをまとめたものが「紀聞」と思われてもいけないので、綺堂さんにまつわる話、とくにその作品に関するトピックスや記事を調べたものが「紀聞」の意味です。綺堂さんの話題をなるべくデーターで示して作品の裏側や実際との関連を実証したいというのが意図です。 もくじ
1.「黄ろい紙」は貼られたか
2.綺堂の最初の著作の秘密
3.『青蛙堂鬼談』のネタ本
4.医学生は心中したか (※3と4を追録 12/12/2001)
5.綺堂の新聞(劇評)第1作について(2001/12/20)
綺堂作品紀聞 その2
6.ヘボン先生の字書(1/15/2002)
7.お染風(3/5/2002)
8.岡本綺堂の新ペンネーム「狂綺園主人」を発見(6/30/2003)
9.三崎町の小僧殺し事件(6/30/2003)
10.相馬の金さん(予定)
1.「黄ろい紙」は貼られたか
『青蛙堂鬼談』(大正期の作品でシリーズとして12作)の作品に「黄ろい紙」というのがある。この話では、明治19年に東京を中心に猛威を奮った伝染病のコレラが話の縦糸になっている。作品の舞台は、新宿あたりと新橋の2地域である。
このときのコレラは、「虎列刺」と表現されていて、新聞記事でもこの漢字を当てている。とくに夏前後から猛威を奮った頃には東京府下だけでも一日、百何十人も死ぬといった有様で、非常事態といってよいほどだった。篤志家は、消毒など防疫にあててもらうために東京府や区の役所に寄付をしている。コレラは、しだいに下町から山の手へと広がってゆく。新聞は区毎に死亡者数を毎日書き連ねてゆく。
さて、綺堂のこの作品には、コレラの患者が出た家には「黄ろい紙」が行政によって貼られたというくだりがある。このころ、コレラに対しては有効な防疫手段や対策がなかったようだ。天ぷらや刺身は食ってはいけないなどが噂としてささやかれているに過ぎなかったようだ。
黄ろい紙は、この家に近づくなという周囲の市民への警告でもあろうし、患者を隔離病院に運び出すための目印でもあったろう。その張り紙を見て通る時にも一般の人もいやだったろう。さて、問題は、黄ろい紙が区や行政によって実際に張られたかという点である。
綺堂自身はこの時代14−5歳だったから、見たことがあり、記憶にあるといえるだろうが、記録としてはどうだろうか?また、それぞれの区によっても黄ろい紙だったり、別のやり方だったり、処置の仕方が違ったかもしれない。作品でも、区や地域によって異なることを伺わせるような表現が見える。
たとえば、明治12年日本橋生まれの長谷川時雨によると、日本橋あたりでは、
「(コレラによる)病人の出た家の厠は壊して菰を下げ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした」(『旧聞日本橋』(岩波文庫)48頁)
とあるので、紙を貼るのとは異なるようだ。いつの時代のことか明記されていないのでわからないが、明治19年頃と思われる。ちなみに、コレラ除(よけ)に3日間に牡丹餅を食すれば、この病にかからないという噂があって、牡丹餅屋は繁盛したという。
答え。実は当時の新聞―全部ではない―をひっくり返して、調べてみたら、張り紙はどうやら(一部かもしれないが)あったようである。だが、その色が黄色だったかどうかはわからなかった。石井研堂の『明治事物起源』も参照してはみたが、見当たらなかった。
郵便報知新聞明治19年8月14日の記事では、京橋区では
「患者のある家の門口へ交通を遮断せる家族の姓名を記したる紙札を貼付け其者等の外出を禁し往来の者の注意とされたり」
としている。記事中「交通」というのは、自動車などのトラフィックのそれではなく、人の行き来・交際の意のようだ。右図参照。
ところで、明治15年の記事には「黄色い紙」が登場する。
「虎列刺新聞」というのがあるそうだが、つぎのような記事があるらしい。
「開化ふりしてやって来ても、あんまりこれらはすかぬやつ 御符お札ははりつめたけれど これらの黄紙にや恐れます」
(同明治15年7月)
同じく同新聞(月日は不明)には、唄にしているのだが、
「三ットせ 見るもいやだとおもふなり 黄紙をはりだすかど口を……」
とある。「虎列刺新聞」の記事はいずれも、小木新造・東京庶民生活史(注=和井府、「京」は中に横棒が入った漢字)(1978年11月、日本放送出版協会)283頁による。
課題として残っているのは、明治19年のコレラに関して、警告のために「黄色」の貼り紙がだされたかどうかについては不明とせざるを得ない。まだ調査する必要があろう。
いずれにしても、予防方法すらわかっていない時代では、コレラ患者やその家族、地域は悲惨な状況だったろうと推測するのに難くない。
【追記 11/11/2002】
やはり、黄色い紙は貼られたという、ほぼ決定的証拠を見つけた。
群馬・館林町に明治4(1871)年に生まれた田山花袋は、明治19年には16歳(おそらく数え年)であり、上京して京橋・伝馬町の有隣堂で丁稚奉公をして暮らしていた。風呂敷に包んだ書物を配達に出かけていたはずである。彼は岡本綺堂とほぼ同年代であるといってよい。
「十九年頃の東京では……。私たちは取敢ず牛込の奥にある大名の下邸(しもやしき)の一部に住ったが、その年はコレラが流行って、何処に行ってもその噂ばかり、避病院に送られる吊台があとからあとへと来るような光景(ありさま)で、魚類などは一切食うことが出来なかった。黄(きいろ)い紙、立番の巡査、そいういうものは到る処で見られた。……その頃、例の保安条例が出て……」
田山花袋著「東京の三十年」(1981、岩波文庫)22−23頁。
「私たち」と言っているのは、弟を指していると考えられる。言論弾圧立法として悪名高い保安条例は明治20年であり、ここでのコレラの話は明治19年のことであるといえるだろう。田山は麹町あたりをほぼ毎日徘徊しているので、麹町あたりでのコレラ対策だったとも考えられる。
この期に及んでは、「黄色い紙」の実物、絵画もの、挿絵などを探すことだろう。
(追記のおわり 11/11/2002.)
2.綺堂の最初の著作の秘密
綺堂の著作目録をご覧いただくとわかるように、明治21年に出した、英語会話や文例などを扱った著書が最初の著作となっている。「実要会話 和英対訳COMPOSITION 記事論説文例」 序文が、アストン書記官と、もう一人イタリア書記官、著者が「大日本国 岡本敬二先生筆」とある。右図参照。
明治21年といえば、綺堂が府立一中を卒業しようとするときであり、まだ、東京日日新聞への就職も決まっていなかった頃である。なるほど、幼き頃から、英国公使館に勤務する父や叔父の武田悌吾などの薫陶があって、英語に馴染みがあったとしても、また、訳があり、洋書を読んでいたこと、欧米での視察でも英会話には苦労していないことなどから、綺堂に英語の才能があることは認めるが、はたして17歳前後の少年が本を出せるかどうかである。
つとに、これに疑問を呈しているのが、『舞台』(綺堂追悼号)に一文を寄せている尾崎良三氏で(「綺堂氏の最初の著書」『舞台』第10年5月号66頁)ある。氏によると、実はこの本は父純(きよし)の手になるもので、著者を子の敬二(綺堂の本名)としたのであろうと推測している。その理由については言及がない。
では、父はなぜ子の名を使う必要があったのか。綺堂自身は、寡聞にして、この点には言及していないし、書いていないようである(どこかにありましたら、ご教示ください)。
親が子の名を使い著者とする? 不思議といえば不思議である。綺堂をめぐる謎の一つといえるだろう。つぎのような推測が考えられる。
推測1.勤務する英国公使館に対する遠慮、や、一般的に父親である純の名にするのがはばかられるとも考えられる。が、父も、実名や筆名ながら小説やその他の著書を書いている文筆家でもある。とすると、この推測は外れることになろう。
推測2.印税を子の敬二に渡すため
そのような税対策はあまり必要ではなかったろうと思われる。公使館勤めでも高給ではなかったろうから別名にする必要はあまりなかったのではと思われる。また、この(種の)本が、当時ベストセラーになるほど売れたとも聞かない。
ここまで書いて思い出したのだが、父・純には、いまでいう連帯保証人になったことがあって、そのために借金の返済を迫られている時期とも符合する。綺堂は甲府まで1人で借金の工面(父の指示を受けてと推測される)に出かけている。また、上の学校とくに大学などへの進学を諦めなければならなかった(諦めたから、今日の岡本綺堂があるのですが)。このため、借金の返済を免れる方途として、子の敬二名義にした、とも考えられる。公使館からの給料は返済に充て、印税を家族4人の生活費に……とでもいうような思惑があったのかもしれない。ただ、この説の難は、かつては武士でもあった、律儀な父純が、このような借金の免れ方をするだろうか、という点である。
推測3.就職を有利にする親心ではなかったか
私は、個人的には、就職を有利にしたという親の配慮ではなかったかと推測する。前述のように、綺堂は、府立一中(現・日比谷高校)を卒業する直前の16−7歳である。父純がなった連帯保証人の証文のため、むしろ家産は傾いており、大学へ行きたかった綺堂の進学の道は実質閉ざされている。綺堂自身は、当時、甲斐へ金策のために一人旅をさせられている(父の勤務の都合で、休暇が取れなくて、その名代としての旅だったと思われる。また、なぜ甲州へだったのかはわかっていない)。さらに、自伝記事の中で、父は何にも就職の世話をしてくれない云々ということまで書いている。
そこで、私の推測はこうである。父純は、綺堂が芝居作家でもなろうかといったのに対して、うんと云って賛成している。芝居作家では座付き作家になればいざ知らず、そうでなければ食えない。おそらく新聞記者になって生活を安定させてという頭があったのではなかろうか。
採用を有利にするためには、やはり何かできなくてはならない。新聞記者で英語ができるというのは、当時としても強みではなかったろうか。このためには、著書があるならなおさら有利である。アストン書記官他の序文を付し、刊行したのは父である自分が長年蓄積してきた英語のノウハウ本であった。
そうしてさらに、自分もメンバーであった、市川団十郎のブレーンが集まる、演劇・芝居改良のための「求古会」の人脈コネクションを活用するのである。そこにいた福地(源一郎)桜痴に東京日日新聞への就職を斡旋してもらうのである。桜痴はすでに同社の社長ではなかったので、東京帝大出の関直彦社長を紹介してもらった。
ちなみに関と桜痴との出会いは、社長であった桜痴が記者を採用したいというので帝大の鳩山教授に学生を紹介してもらうときに、英語ができる人物という条件を付けている。この学生が関直彦というわけであった。関には政治小説『春鶯囀』(明治17年)という翻訳があった。原本はビーコンスフィールド伯ディズレーリーの『コニングスビイ』である。この説だとちょっと現実的すぎるきらいがある。
推測4.メモリーとして
ただ、アストン書記官は、翌明治22年に離日しているので、そのメモリー・思い出のために、また同時に、綺堂は一中を卒業するので、英語を教えてもらったアストン氏との記念のために出版した、ということもありえよう。ただ、これはロマンチックな線である。先の尾崎氏は、本書の内容を見て、とても難解であると評しておられるので、父親がゴーストライターであるとする立場である。
さて、出版社は、「井ノ口書店」である。井ノ口書店からは、父がすでに岡本純の名前で『保安条令 後日の夢』(井ノ口松之助(書店)、明治22年3月)の本を出した出版社である。
また、綺堂が東京日日新聞社に勤務するようになって、勤務や夜学に通うために元園町の実家を離れて、最初に下宿するのが、実は銀座にあった井ノ口書店の2階である。父の書記としての仕事柄、公使館関係の印刷などで知合ったか、別のルートでの懇意であったと考えられる。
3.『青蛙堂鬼談』のネタ本
綺堂がどのように作品を書いたか興味がある。ただ、その場合、こちら(私)の方には知識がないから、作品がどのようなルーツで、あるいはネタにして書かれているか判らない。そこで、柴田宵曲氏の分析をここに紹介する(同「綺堂読物の素材(一)」岡本綺堂戯曲選集月報2号(昭和33年11月10日)による)。
作品「青蛙神」は、3つ足の蝦蟇の話である。綺堂も、実際、竹製の置物を持っていたという話である。
この話は宋代の「江淮異人録」に出てくるという。最初が扇、2度目が綺堂作品では鎧、他では馬となっている。
作品「利根の渡」が、中国の「閲微草堂筆記」を元にしていることはどこかでたびたび読んだことがある。綺堂自身もこのことを語っているそうである。
「蛇精」は蛇取名人の話であるが、「夷堅志」の「[虫へん+也、(ジャ)]王三」に拠っているそうである。うわばみ退治に、3本の線を引き、第3線が破られる前に退治するが、反対に最後の線を超えられると、窮地に追い込まれる。そこで、股引を裂くと、うわばみも2つに裂けて死ぬまでは同じ。また、蛇吉が雲隠れし、村人が蛇精だったと噂するのも同じであるという。
「清水の井」は、熊本菊池あたりが舞台となっている。これにこの地域にある平家伝説を加味している。土地の郷士の娘が蝶に導かれて屋敷の古い井戸を覗くと中に誰か居るようである。引き上げてみると鏡があった。
元話は、「博異志」の「敬元穎」であるという。小泉八雲もまた、これを元にして室町時代の京都を舞台にした「鏡の少女」と題する話を書いているという。
4.医学生は心中したか
綺堂の「月夜語り」のうち第3話では、友人の医学生が吉原で心中する事件を描いている。その父は、日清戦争前後の「成金」―この語もこの頃できたものらしい―だったが、その後に没落する。医学生が通っていたのが、済生学舎であったし、ここの学生が吉原などでよく心中事件を起こしたという記述になっている。済生学舎は、元長崎医学校校長の長谷川泰(たい)が、1876(明治9)年に創設した私立唯一の医学機関で、女子にも聴講を許可していた。本郷湯島にあったが、日本医科大学の前身である。
この事件が起きた時期は日清戦争の前年つまり明治26年としている。はたしてそのような事件が実際に起きたのであろうか?
実は見当たらなかった。明治26年の東京朝日新聞の雑報欄を中心にめくってみたのだが、それと思しき記事には行き当らなかった。済生学舎の学生が絡む心中事件はあるにはあるが、場所が吉原ではなくて違っていたり、済生学舎の学生の友人が引き起こしたものだったり。また、他の新聞紙にはあるのかも知れないが……。年代が明治25年の5月17日の東京朝日新聞の記事には、本郷区元町2町目の医学生が吉原の某楼でモルヒネ情死を遂げる記事があるにはある。記者子も「よし原心中沙汰は昨今流行物のやうになつたり」と嘆いている。
はまり記事がなかったのは、綺堂氏の諸記事や諸事件の“集大成”として作品化したのだろうと推測しておく。いくつかの事件を読んだので、特徴を挙げておく。
当時の新聞は心中事件の扱いに比較的熱心である。数回つまり数日分に記事がわたるというご丁寧なものまである。また、書出しがとくに訓話的というか教訓的である。さて、心中事件ではないが、明治26年7月14日付記事は、済生学舎の学生が試験に落第してモルヒネ服毒自殺した事件を報じている。同年12月10日付では、試験勉強がうまくいかずモルヒネ自殺した事件などがある。
心中に及ぶのは、場所は吉原か廓、地方だと旅館のようだ。綺堂作品にもあったモルヒネを使ったものや、常套としての剃刀など刃物、それに大川への身投げというのが多い。全体に22―4歳くらいの若い女郎とこれまた若い学生や若い者である。若いのにというのが痛ましさだが、それだけ絶望や苦悩も大きいのだろう。女性はほとんど身売り同然、男は将来に悲観して、あるいは同情して死ぬというのだろうか。このあたりが、新聞記事への需要である。
綺堂のこの作品では、すすきの穂が出てくるが、晩夏から初秋という意味であろうか。明治中期の自殺は、3・4月から増え、7月がその頂点となり、8月に至って減少するとしている(木下尚江「自殺の季節」毎日新聞1902年5月26日初出、同全集第15巻85頁(1997))。
また、試験に落第したくらいで自殺するか?という点が気になっていた。進級や資格試験それに入学試験などに落ちて……現在ではとても考えられないことだがという気があった。しかし、これは明治の頃では良く起りうることだったようだ。たとえば、明治30年前半頃の中学から高等学校への入学試験の苛酷さがあったようだ。木下尚江の記事によると、合格率は、明治32年で47%、明治33年では38%、明治34年では31%という狭き門であったようだ。また、綺堂の明治22−23年頃には府立一中を卒業するものさえ少なかったが、この頃になると高等学校への進学が俄然増加していることが分かる。
5.綺堂の新聞(劇評)第1作について
綺堂の全著作リストには、現在「新富座漫評 東京日日新聞 1890(明治23)12月16日、17日 (無署名)」が、著作第2番目の作品として挙げられている。しかし、これより以前の新聞記事が無署名にせよ存在するのではないか。その理由はつぎのような記述があるからである。
綺堂が東京日日新聞を発行する日報社に入社するのは、雪模様の明治23年1月22日である。さて、2月3日に出社すると、編集長の渡辺亨に呼ばれて、千歳座(のちの明治座)の招待日なので見物に行ってはどうかと促されている。各座では、新聞記者を招待して、その劇評を書かせて、評判・宣伝効果を意図したものらしい。17歳の綺堂は、さっそく、人力車で千歳座まで出かけている。日報社の茶屋は武蔵屋であった。そこへ寄って、劇場に入ると、すでに14,5名の各社の新聞記者たちがいる西の桟敷へ案内された。
もう午後だったので、見物した芝居は、「有松染相撲浴衣」(有馬の猫騒動)と「扇屋熊谷」であったと書いている(岡本綺堂・明治劇談 ランプの下にて(岩波文庫)150−151頁)。綺堂の、今は失われたらしい日記があったためこのように詳細であったかと思われる。念のため、この狂言が実際に掛かっていたかを、伊原青ゝ園・歌舞伎年表第7巻(昭和37、岩波書店)で調べると、明治23(1890)年「2月1日、千歳座、「有馬の猫」「扇屋熊谷」。前の顔ぶれ。」(同7巻358頁)とあって、綺堂の記述と一致している。この後、鳥越の中村座にも招待されて、出かけた。
私が問題にしたいのは、つぎの記述である。編集長から、これら2座での劇評を3、40行書けといわれている。翌日には、掲載されなかったが、翌々日には、添削なしで掲載された旨を書いている(前掲書153−154頁)。ここまでの記述があるなら、綺堂の新聞記事の処女作はこの千歳座劇評と中村座劇評でなければならないはずである。しかるに、綺堂の著作リストには、現在、
「2.新富座漫評 東京日日新聞 1890(明治23)12月16日、17日 (無署名)」
とあるだけで、これらの劇評は挙げられていない。存在するとすれば、この劇評が上記「新富座漫評」(同年12月)よりもはるかに早いはずである。明治23年2月5日と6日の東京日日紙上に連載されている(無署名の可能性はある)はず、というのが私の推測である。
リストから漏れていると強く推測される。そのためには、現物を確認する必要がある。編集長の渡辺が綺堂少年の実力を試すために、あるいはそのデビューをさせるための配慮から、無署名かもしれない。さらに、この2月の記事と12月までの間にも、無署名ながら記事が存在することも考えられる。この辺りを調べることが必要であろう。ちなみに、明治23年2月以降はすべて招待桟敷から観劇したとあり、また日報社では渋柿園にかわる劇評担当として綺堂を養成しようとしたので、この間の劇評記事が綺堂の筆である確率は高いと思われる。(2001/12/20記)
○追記 2002/02/12
調べてみたところ、「東京日日新聞明治23年2月7日付」にたしかに「劇評」は存在した(下図参照)。しかも、千歳座と中村座の2つで、併せて30行で、上の綺堂の記述と一致している。したがって、この無署名の記事は、岡本綺堂の入社最初の記事であると確定してよいと思われる。
千歳座・中村座で観劇したのが、2月3日だとすると、翌日には掲載されなかったが、掲載されたのは、その翌々日であったと書いている。とすると2月6日あたりということになるはずだが……。午後から一日だけで、二座も見れるかということである。若いから意欲的で、ま時間的にも不可能ではないかもしれないが、重要な演目は見ることが出来ないかも知れない。そこで、2月3日に千歳座、翌4日に中村座を観たとするのはどうだろうか。そうすると、2月4日から数えて、2月7日が掲載日ということで辻褄は合うのだが。
調べた時の私のメモによると、同紙同年2月4日には、「○吾妻座 本日九時より……」の芝居の案内記事はあったが、これは所演予告案内で劇評ではなかった。2月5、6日にも芝居関係の記事は存在していない。さらに、2月8日以降の記事にも劇評関係の記事は存在しなかった。これによると、綺堂の新聞記事の第1作は2月7日の劇評であるとしてよい。
東京日日新聞明治23年2月7日付 デジタル・テキスト化
千歳座は、「櫓競芝両国(やぐらくらべしばりやうごく)」「地紙画源平躑躅(ぢがみのゑげんぺいつゝじ)」
中村座は、蝶千鳥曽我実録(てふちどりそがのじつろく)
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