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岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。 ご案内
16.鉄砲洲稲荷神社(中央区湊1丁目6) 【交通】地下鉄新富町駅からすぐ。銀座から歩いて30−40分くらいか 鉄砲洲稲荷神社と東京日日新聞、鏑木清方
佃橋の取り付きのところ、湊1−3丁目の通りに、鉄砲洲通という名が付いている。これをたどってゆくと10分ほどで、手前に公園とその向こうに神社が目に入る。途中には、事務所か工場などがある。鳥居のすぐ右の石碑に神社の名が刻まれているが、その碑の側面には揮毫者である関直彦の銘がある。<写真参照> おそらく今日、この戦前の衆議院議員で後に議長の肩書きを持った人の名を見ても、誰かと想像できる人は少ないのではないか。紛れもなく、大震災と空襲に焼け残った碑であることがわかる。偉そうなことをいっても、私もついこの間までは知らなかったのだが、関が紀州出身の人で、東京日々新聞社社長を帝大卒の若い時期に務めた人物なのであった。 鉄砲洲稲荷神社を訪れたのは、7月のはじめの頃で蒸し暑い日であったが、社殿の前には珍しい、茅の円い輪が設けてあった。実際に見るのは、ここを含めて何度目かである。鉄砲洲稲荷神社は、下町の神社であるだけに立派なものである。近所の人の参詣もあるようだ。鉄砲洲の由来は、江戸の頃、大筒の試し撃ちをした場所とか、出洲の形が鉄砲にも似ていたからとも云うようだ。この鉄砲洲稲荷神社の呼び方も、八丁堀稲荷、湊稲荷、鉄砲洲稲荷とも呼ばれたように、維新前までは、現在の地にはなかったようで、もっと大川寄りというか、海寄りの方にあった。「入り江に沿って佃島に相対していたので、今の稲荷橋の畔にあった」 鏑木清方・随筆集明治の東京83頁(岩波文庫)。 境内の右奥には、浅間神社がある。溶岩の黒い、固まりが山のようになっている。富士信仰の、富士講によるものであるという。なぜ溶岩流のようなものが、他から持ってきたのであろうか。今に残る数少なくなってきた富士信仰のものらしい。また、浅間神社の入り口のところには、卵形の力石がおいてあった。鉄砲洲稲荷神社を訪れたかったのは、東京日々新聞社や日本画家・鏑木清方と縁があるためである。清方の実父である條野採菊の妻の母、つまり清方の祖母がここの神官の娘であった。そのせいもあってか、鏑木清方は、この近辺や日本橋あたりで育った。彼自身は、随筆によると"おばあちゃん子"だったらしいが、母親の婦美は、洒脱な江戸っ子気質だったようだ。 「鉄砲洲の湊稲荷、今もその社は繁盛であるが、前の社司甫喜山氏は私の祖母の生家、江戸累代の家筋であった。学校が近くなので私は毎日ここに寄って、御蝋(おろう)、と呼ぶ人があると小さい蝋燭をあげる御宮番の手伝いをしたりして遊んでいた。祖母がまだ生家にいた時分一立斉広重が御宮を信心で、御祭礼に燈籠を書いたという話を聞いたことがある。」 ―鏑木清方「築地界隈」明治の東京82頁(岩波文庫) 江戸名所図会に描かれた鉄砲洲稲荷社 なお、「学校」とは、鉄砲洲の「鈴木学校」である。鏑木清方の文章は、今日あまりない雰囲気とやさしい語りを感じさせる。画家らしく、時代の雰囲気や街角のにほい、市井の人々の気持ちといったものが、感じられ、随筆の名家としてもよいように思う。大仏次郎氏だったかが書いていたように、條野や西田、綺堂や清方にしろ、力みのない文章を書ける人々がいたということである。 父である條野採菊(山々亭有人)は、実業の新聞社経営や記事や小説の執筆で多忙だったためなのか、あまり家庭を顧みなかったようで、清方の随筆にはわずかに登場するだけである。また、現湊3丁目の南の方には、道路を隔てて、築地明石町がある。 二つの甫喜山家 さて、今一度新聞の方に帰らなければならないが、東京日々新聞といえば、鏑木清方の父、前述の関直彦、そして甫喜山景雄(ほきやま・かげお)を関係者として挙げなければならない。甫喜山景雄は、旧幕臣だったようだ。條野、福地桜痴、西田らが、東京日々新聞に誘ったようだ。條野とは、その妻方の神官というつながりの背景があったのではないか。 研究家の岸川雅規さんから、教えていただいたことによると、鏑木清方の母方の甫喜山氏(本家)と、甫喜山景雄の甫喜山氏とは親戚であるとのことである。本家の甫喜山氏は、もともとは神田明神の神職にあったようだが、のちに八丁堀稲荷(現、鉄砲洲稲荷神社)の神職となったようだ。 東京日日新聞編集代理としての甫喜山景雄 ![]() 甫喜山景雄は、言論弾圧立法として悪名高い新聞紙条例(1875年6月28日)によって、『東京日々新聞』の編集長代理として筆禍事件のために有罪となり禁固の刑を受けている。第一号が1875(明治7)年の8月7日の、東京曙新聞の末広重恭(鉄腸)、第2号が甫喜山であり、8月12日で、刑が禁獄30日、10円の罰金である。ある投稿者の記事を掲載したそれだけの理由である。新政府にとっては、その投稿記事の内容が気に入らなかったというだけにすぎない。第3号が、8月28日の,朝野新聞の成島柳北で禁獄5日(成島にとっては初回にすぎない)、さらに第9号が、横浜毎日新聞の編集長であった塚原靖(しずむ)、すなわち、のちの歴史小説家となり、東京日々新聞の記者となった塚原渋柿園の名も見える。甫喜山は、翌1876年5月17日にも、2回目となる3月の禁固を言い渡されている。上の内、塚原は横浜なので、桜木町の自宅で見張り付きの禁固刑であるが、東京の他の者も、自宅禁固であった。 初期は自宅禁固で済んだようだが、鍛冶橋監獄には、すでに1874年新築された獄舎が設けられていた。文字通り「文字の獄」はここを舞台として展開された。ここは、十字形をした4棟の、2階建てのもので、各1階に10房あるので、合計80室ある。1房4畳半の広さで、4枚の畳と半畳のところに便器がある。外壁はなかったようで、雨風さらし、蚊やシラミに悩まされたという。刑罰や監獄システムの不備については成島柳北の「ごく内ばなし」(朝野新聞6月14日ー25日連載)や植木枝盛の「出獄追記」(報知新聞1876年5月15−27、29,30,6月1,3,8日掲載)などがある。今日から避難するのは容易だが、それにしても立法権は新政府(行政)にあり、警察と検察、司法制度が未分化、未完備であり、人権意識もほとんどなかったと云っていい。 のちに実際に下獄した成島柳北の「ごく内ばなし」が公開されているので、その獄舎の様子は詳細にわかる。成島柳北を扱うサイトの「ごく内ばなし」:http://www.act-k.co.jp/~tidutsu/narushima/gokunai.html 上図は、「我自刊我書」および古書保存書屋の名がある。および下図は景雄編の「コレラの用心」(明治10年9月).ちょうど西南の役があっている頃ですね。両図とも国立国会図書館近代ライブラリーよりの画像を加工したもの.かなりの古書が公開されているので、読むことができる. ![]() それ以降、甫喜山の名が新聞ジャーナリズムの歴史に登場することはない。新政府によって罪人とされたことが、ひどく名誉や誇りを傷つけたためかとも推測する。しかし、古書復興出版者として活躍する。「我自刊我書屋」(がじかんがしょおく)である。明治10年代、甫喜山景雄が、重要な古書を復興して刊行した。 「武江年表」斎藤幸成著、「江戸名園記 」成島司直[ほか]著、「清正朝鮮記」甫喜山景雄校、「續日本史」一色重熈著、「嘉永明治年間録」吉野真保著、「嘉永明治年間録」「吉野眞保篇輯」、「羽倉考」、「信長公記(3巻)」太田和泉綴之、「色音論 : 本一名あつまめくり ; 諸國盆踊唱歌」、「柳亭種彦序『諸国盆踊唱歌』(東京 甫喜山景雄、明治十六年七月)などがある。この他にも多数あるようだが、甫喜山景雄編「コレラの用心 : かな俗文 」(明10.9)もある。 さて、なぜ関直彦の名があるのか?議員としているところを見ると、議長になる前の頃と思われる。よく判らないが、やはり、東京日々新聞の関係で依頼されたものと思われる。また、岡本綺堂がこの鉄砲洲稲荷神社を実際に訪れたかことがあるかどうかは判らないが、彼の属した東京日々新聞の関係でゆかりある土地といえるだろう。 なお、甫喜山の発行者としての住所は、奥付によると、つぎのようになっている。「コレラの用心」(明治10年9月)刊行当時では「神田宮本町乙二番地」、また、「武江年表 巻10」(明治15年6月)のときは、「京橋区西紺屋町9番地」 2004/07/27 記■ |