
| 岡本綺堂が生活したところを懐かしんで、現在のその地を訪れてみようという他愛ないノスタルジィックな企画です。何かのついでに行ったということが多いので、由来や年代に関係なく、記述しています。 ご案内 きどう散歩 もくじ 20.橋場 浅草 ー半七夫婦が眠るところ 【交通】 浅草駅(銀座線)から歩いて30分くらい。 半七夫婦が眠っているという橋場というところがどんなところなのか、すでに当時の面影は期待できないものの、場所なりと知っておく必要があるのでは、と思い立っての、このウォーキングでした。やはり歩かないと、土地勘がつかめない。 浅草松屋前の馬道通を北上する。途中、花川戸1丁目・2丁目の地名。そう、花川戸助六さんの地元である。言問通に出ると、右へやや言問橋よりに歩き、かつて猿若町と呼ばれた小路を探す。橋のたもとから二本目の通りがそうである。町名の案内書がある。藤浪道具店の前(たぶん、操り人形の薩摩座あたりがあったところではないかと推測)を通り過ぎ、猿若町由来の石碑が右手にある。さらに奥へ進んでゆくと、中村座跡の石碑が左側のマンションらしき建物の端に立っている。さらに一丁ばかり進んでゆくと、左手、店の脇に市村座の跡の石碑があった。ここは現在、浅草6丁目となっている。 江戸通と呼ばれる隅田川にもっとも寄った大きな通りがあるが、土手が高いのか、建物が遮っているのか、川そのものも向島は見えない。女子中学生たちが賑やかに帰りを急いでる。暫く先に白髭橋があるはずだが、もう足が疲れてしまっている。 私もむろん知らなかったのだが、橋場は、今でこそ住宅や小工場が並んでいるようだが、明治の頃は、一種の保養地ともいうべき鄙びた地域であったようだ。当時は、向島とを結ぶ渡し場があった。 下の絵は「橋場暮雪」(隅田川八景のうち)一部、安藤広重・画、国立国会図書館蔵
半七老人が終焉の地をここに選んだのも頷かれるところである。むろん、何かの縁があったのかも知れないが。半七シリーズでは、半七老人は、明治三〇年代と思われるが、毎月一遍は、ここへ墓参りに来ているとしてある。女房のお仙さんが、どのような訳で亡くなったのかは記されていない。それはともかくも、幕末の頃の絵図(嘉永6・1953年)をみると、「都鳥ノ名所ナリ」との記述が見える。文人墨客もしくは通人の通うところだったのだろう。銭座も置かれており、寺としては前述の法源寺、王蓮院や福寿院などの名がある。おそらく、作者綺堂氏もこれらのうちのいずれかに、その具体的な所在地はともかく、半七夫婦をここに眠らせたのだろう。橋場にしろ、今戸にしろ、寺町といってよいほど寺が多かった。浅草や猿若町を逃れた、閑静な場所であったのだろう。シリーズでも「熊の死骸」「広重の絵」「河豚太鼓」などにも何度か出てくる。いずれも、寺まいりとか、離れ座敷とかいう設定である。やはりそのようなイメージの中で選ばれたということなのだろう。 吉原跡、一葉記念館、三輪などを落としたかったのだが、疲れと、はや冬の日は暮れかかり、時間もないのであきらめた。 帰りも徒歩だが、公園の入り口として残されている今戸橋跡を見て帰る。永井荷風先生はここで記念写真を撮っておられる。荷風先生の、今戸橋を舞台にした作品の話はすでに書きました。こちら。 2005/02/14 記■ きどう散歩 もくじ へ戻る |